昭和52年09月23日 秋季霊祭
おかげを頂きましておかげの中に秋の御霊祭りを、月次祭に併せて只今おかげを頂きました。信心をさせて頂きますと必ず信心の、これは信心を頂かなければ頂けない喜びが頂けます。所がその喜びがつかの間に消えてしまう。どうした事だろう。信心とはその信心の喜びを愈々育てて行く事。その喜びを本当のものにして行く事。そして自分の心の中に喜びの世界をつくり家庭に、そしてそれを周辺に広げて行こうというのが、私共の願いであると同時に、天地の親神様の又悲願でもあるのですから、そういうおかげの頂けれる信心を頂きたいと思います。
只今若先生が、この価値観と言う事を申しておりましたが。おかげを頂いて有り難い、またしかしすぐ消えるというのでは値打ちがない。勿論そういう有り難さでは、あの世にも持っていけ、この世にも残しておけると言う事にならない。あの世にも持っていけ、この世にも残しておけるというほどしの喜び、又は信心を頂いて行きたい。そこにいうなら価値観のいわば転換。果たして自分というのは本当に信心が頂けて、信心が分かって行く事の喜びが、こうしてしげしげと合楽にお参りをしておるのだろうか。
お参りをするお願いをする。確かに奇跡な、と思われるようなおかげも頂く。それはそういうお願いをしてはならんとか、頂いてはならんと言う事ではないけれども、そのことを通して、私の信心が育っていっておるだろうかと言う事をね、いつも自問自答してまいりませんと、おかげおかげの喜びで、それも有難かったり有り難くなかったりと言う様な事に終わってしまったんでは、折角の信心がまぁいうならばもう台無しです。何も残っていない、一生終わったところ何もなかった。
あちらにはいうなら、空念仏だけしか持って行けなかった、と言う事になったんでは、馬鹿らしい話です。今日は皆さんに最近、もう私が口を開けば、合楽理念と言う事を申します。その合楽理念というものが、どんなに尊くて有り難いもので、おかげの頂けれる、いわば御徳の頂けれる力が受けられる、いうなら理念であるかと。合楽理念は助かりの理念。というならば御霊様。合楽理念と御霊の世界と言った様な事を、まぁ聞いて頂こうと思います。
今朝から頂きますご理解、ここ2、3日の御理解を、ここに今朝からまとめました。ちょっと難しいようですけれども、ちょっと読んでみましょう。「合楽理念は、その実行を持って生命とする」という。マスターするという覚えようというだけではいけない。その実行を持って生命とするというのでございます。これはもう本当に実行しなければ駄目です。私はこれは又聞きで、川上さんだったか。2、3日前に福岡教会の、福岡の支部の共励会でした。
もう秋永先生がもう、初めて赤裸々に、お話下さった事がもう本当に有難かったというて、お届けをされたんです明くる日。というのはこれ程合楽理念、合楽理念といわれるのに、これ程おかげの泉はね、少なくとも10回は読んで下さいよと、あれに書いてあるのにも関わらず、信徒会長の私がね、おかげの泉を読んでいなかった事に気付かせて頂いた。そしてそれを毎日一回ずつ沢山ありますから。
そのどれでもよいから毎日一冊ずつ読むと言う事を皆さん実行して、私がもう遅まきながら今これに気付かせて頂いて、もう本当に、有り難いおかげを日々体験させて頂いておると言う事。これが出来ておいでられる。この頃から、岡山の里庄からお参りをして見えた。もう長年成長の家。それこそ成長の家のご本というのは莫大なもんですね。それをもう読破したけれども病気が治らない。
偶々ここに修行しております、岩部先生のお父さんが、先月初めて息子をこちらにお預けしておるのであるから初めは反対であった。里庄教会のご信者でもあるしあちらで修行した先生が、合楽にくるというのですから、自分の立場も非常に悪い訳。それでもまぁ一遍位はちょっと御挨拶にいくというのが先月でした。それが今月も又お礼に出て来ておる。というのはです自分が思うておった合楽と、来て見てみて話を聞いてみての、その合楽の信心の相違が、これこそお道の信心の神髄をいくものだと言った様な。
とりわけこのおかげの泉それから最近とかれる合楽理念というものが、素晴らし過ぎると言う事に気が付いた。息子を学院その教師にでもなそうかというぐらいですから、なかなかねやっぱり信心も出来ている分かってる。そして自分の友達であるところの、その成長の家の人ですかね、御信者さんにとにかく一遍これを読んでご覧なさいというて、合楽理念の特集号を一冊あげた。もうそれこそビックリしたんですね。何十年間もう本当に谷口雅春先生という方が、まぁいわば教祖様です。
その方のいわれる書かれた物をもう、それこそ角から角まで読破したけれども、自分の心に合点の行くものがなかったけれども、たった一冊の薄っぺらなこのご本の中に込められておる神意というか神愛というか。どうでもという神様の切なる願いが込められておる、と言う事に気が付いた。もうそれがもう私が長年探し求めておった信心はこれだったと。いうてそれを繰り返し繰り返し読ませて頂いておるうちに、1月半経った時にもうすっかり、実はこれは胃癌だったそうです。
私は医学の先生から後から聞きましたけれども。それがすっかり陰もないようにおかげを頂いておる。そこで岩部さんあんたが合楽に今度参るならば、私も連れて参ってくれというて、ちょうど月次祭の前の日に、参ってまいりまして。そして月次祭を頂いて愈々有り難くなり。明くる日帰る時にはこの有り難い合楽理念を、私の方の地方に広めさせずにはおかんという決意をね、お届けして帰られました。
秋永先生がもうここで一番大将の信心しておるものがです、ならそりゃ読みよったに違いはありませんよ。けれども本気で身を入れて、本気で読んでいなかった事を私は本当に、恥ずかしいけれども、この事を皆さんに聞いてもらう。そしてこの事の実行をして下さい。私はもう日々そこからおかげを頂いておる、という話をされたと言う事です。成程合楽理念は助かりの理念だと言う事が分かりますですね。だから合楽理念はその実行を持って、生命とするのですから、分かっただけではいけない事が分かります。
次に「合楽理念の実行的原理は我情我欲を没却し、我情我欲をなくして、実現せられる」合楽理念は。いうならば我情我欲を取る稽古だと。しかも合楽理念はその我情我欲を取り外して行くと言う事を、さほど難しい事ではない。その気になればなしていけれる、いわば手立てが説いてあるのが合楽理念である。どうしてこんなに有り難い、有り難いと思うておる心がいつの間に、どこで消えるのだろう。どこで落としてしまうのだろう。確かに合楽にお参りをする。確かに生き生きとした有り難いものが頂かれる。
それはちょうど今日ここに、両サイドにあのお花がいれてございました。見事に活けてある。お祭りを寸前にあのお花を頂いた。ところが誰かいれる者はいないかと探すけれども、お花屋に私の気にった花をするとが一人もおらん。だからまぁそん中でも家の嫁が一番上手ごたったから、嫁に用意だけしてあのお花を入れて、折角の花だから御霊様にお供えしてくれというて頼んで、準備をして終わったところへ、ちょうど竹内先生の奥さんが参ってみえられた。
皆さんも御承知のようにまぁ名人ですから、もう早速このようにどんなに素晴らしい花でもそれを台無しにする様な事では、それはやっぱり活け上げる、いうならば手立てというものが稽古に稽古を重ねられて、しかも生き生きとしたその花が、水を上げていわば私共の目を楽しませてくれるようにです。私共の心もやはり同じこと。確かに合楽におかげを頂きますとです、生き生きとしたみずみずしいものに、何かが触れられんだけれども。それが何時のまにか枯れてしまう。
それはどう言う事かというと、我情我欲を離れて真の大道を開き見よ、わが身はに終わらんな、神徳の中に生かされてある。「我が身は神徳の中に生かされてある」のであり、浸っておるのである。けれども私の心がそれを吸い上げる何物もない。いうなら枯れた花をどんなに水の中に付けても、吸い上げる事が出来ないでしょう。ですからいうと我情は我欲がそのね、有り難い勿体ないというものは、吸いとってしまっておると言う事が皆さん分かるでしょう。
確かに有り難かったが、信心ちゃ有り難いもんじゃあると思うたけれども、それが何時の間にか枯れてしまう。そこでそれを求め続けさせて頂いておったら、だからそこに求めにゃ分からんのです。我情が我欲が、その有り難いというものを吸いとっておったと言う事が分かります。だからそこが分かるとです、いやこれは本気で我情我欲をとらなければいけないなと言う事に気が付きます。
とても我情我欲てんなんてん、そりゃ「我が身は神徳の中に生かされておる」事が分るかも知れんけれども、とても我情我欲てんなんてんな、取られはせんと言う様な事ではいけない。この喜びがどこからどうして漏れてしまうのかと言う事を、気付かせて頂くと我情であった、我欲であったと言う事が分からせてもらうから、そんならその我情を我欲を、それこそ少しずつでも取りさらしてもらおうと言う所に、信心の稽古の焦点がおかれなければならない。
そこにはみやすう楽しゅう、しかもいうならば天地のリズムを聞きながら、そういう働きの起こってくる信心にと、いうなら変わっていかなければいけません。教祖様は嘘は仰っていない。我情我欲を離れてね。今日も宮崎から参って来たある方が、職業のことであれやら、これやら実に迷っておる。どうしていいやら分からん。そしたらねこちらが良いですよこれが良いですよ。
御主人がいわれるそれが良いですよと。途端にねその方の何かしらんけれども、もうこれだけ迷うておった事がね、スキッとしたと言った様な感じが私に返ってくるんです。そのいうなら苦しい迷いというのは我情。自分が右がよい左がよい。いやそれでも本当のことは分からんというて、こうまあまぁしておるところに心がさっぱりしない。はっきりとそりゃ右がよいですよ。左がよいですよと。しかも御主人が言われておりなさったら良いですよと時に腹が決まった。
決まったところに、いうならば目が輝いて来る。信心ちゃ有り難いもんだなぁ、もうそこに信心の喜びが頂けれる。なら帰り道々先生はあげんいいなさったばってん、やっぱ俺が思うとったとがよかかん知れん、ちゅうて思うて行きよると又、その有り難いとは消えて来るわけです。我情が出てくるから消えるのです。だから一遍になかなかそれが、取り払えると言う事はないけれども、合楽理念はその我情我欲を取り外して行く。
言うならば手立てというか、又それに進んでいくところの足がかりが、楽しゅう私の体験をもとにして解いてある。教祖様の教えて下さっておる御教えに基づいて解いてある。だからどうでもねその我情我欲。どうしてこの喜びが消えるか。その喜びは我情が我欲、我情芽が我欲芽が吸い取っておったんだ、と分かるのですから。その我情我欲を取る稽古をしなければいけない。
それを簡単に申しますと親先生任せ、神様任せという風にここでは申します。自分な右がよいと思うておった。これは我情です。自分の思いです。けれども左が良いですよといわれると左の方と、そして同時に不思議に安心が生まれて来る。だからどうでもやはり我情我欲をとる稽古をさせてもらわなければ、喜びは育ちませんのです。「合楽理念は時代により替わる。ところによって替わるものではない。究極は世界総氏子の、心開発にあり」というのです。
少し問題が大きくなって参ります。合楽理念はね今はそうじゃろうけれども、何年先には替わると言った様なものではない。それは合楽だけでは通用しよるけれども、と言う事ではない。日本国中だけではない、世界のどこの隅々まで行っても、この助かりの理念は通用するんだ。そして普遍のものだと言う事なんです。替わらないものだと言う事なんです。ですからどうでも私共の、いうならば信心生活の上に合楽理念をもとにしなければ、もうとにかく商売は合楽理念を持ってする他はない。
百姓は合楽理念を持ってする他はない。末永先生が海外布教は合楽理念を持ってする他はないというて、あぁいう不思議としか思われない、御比礼を南米の地で輝かせておるのであります。だから合楽だけじゃないでしょうが。南米の果てまでもこの理念は通用するんだということです。黒人の人が白人の人が。そして現地人の人が日本人の人が、もうそれこそ助かっておるんです。もうそれは不思議な不思議な働きが生まれてくるんです。そこで、海外布教は合楽理念を持ってする他はないと言う様にです。
お商売をする人がもう、合楽理念を持ってする他はないと、いうほどしのおかげを頂いたら、今まで5売れよったのが、20も30も売れるようになるでしょう。もっと輝かしい事に成って来るでしょう。これはなら家庭で家事に勤しんでおられる主婦の方達でもです、家庭の(信者はしゅう?)は、もう合楽理念を持って、子供の教育又は、家事万端は合楽理念を持ってする、もうどう言う所にでも入っていけれるように、合楽理念は説いてあるです。
「究極は、世界総氏子の心開発にあるのです」天地の親神様が合楽を通して、合楽理念を私に教えて下さり、それをいうならば世界中の人達に現して行く。昨日梶原先生が、いうておったそうですけれども、先日から大阪から大変まぁ皆さんも御承知のように、マンモス教会が何軒もあるところです。そこの青年教師の方達がここへ参りまして、私の信心の24時間。もうそれを写真やら8ミリやらに映して、話もまだそれこそその合楽理念を聞いて帰られたんです。
それがあちらでちょっとした、まぁセイセンションが起こるほどしのことであったと。どうでもあちらの大きな会合に、合楽の先生に来て、お話をしてもらおうと言う事。これは、先日電話が来たけれども、私はそれ、お断りしました。けれどもあちらで青年教師達が、10何名の方達が話しあって、それで今度の合楽の十年の記念祭には、お引き寄せを頂きたいという通知があったと言う事でございます。
本当に真面目に、しかも素直な心で合楽理念を聞こうとするならば、分かろうとするならばです、金光様の信奉者である限りは誰でも分かる、いや信心を本気で求めておる人ならば、聖教のイエス人でもキリスト教の人でも仏教の人でもです、いうならこの合楽理念を元にしての仏教であり、合楽理念を元にしてのキリスト教でなからなければならないことが分かってまいります。
そういう意味で、やはり宗教革命です。そういう大変な内容をもっておるのが、合楽理念だと。世界中の氏子に、いうなら心を開発して行く。心を開かせて行くという一つの神願というものが合楽理念にはかけられておるんだということであります。「合楽理念の実行的原理は、人間氏子の神任せ、絶対精神の行動により実現されるものである」いうなら、この今申しました神様任せ、それそういう絶対精神がね、段々私共の中に確固たるものになってこなければならない。
「合楽理念は自ら天地の心を体得し、自ら神を目指し、人間幸福の条件の全てを受けようとする理念なり」とございます。「合楽理念は自ら、天地の心を体得し、自ら神を目指し、人間幸福の条件の全てを受けようとする理念」ですから、そういう人間の幸福の条件の全てが足ろうて行くと言う事をです、皆が願わない人は一人もいないのです。所がそれは今まではあまりにも難しかった。
そういういわば信心によって本気に助かろうとして、本気に極めていこうとすると、この頃ブラジルで進学を愈々極めて行こうとして、もう自殺するより他にはない。ノイローゼのようになった。たまたま合楽ビリグイにそういう、生き生きとした御比礼がたっておることを聞いて、わざわざサンパウロから訪ねた。そして合楽理念を聞かせてもろうて、私が長年探し求めておったのは、やっぱりこれだったと言う事に気が付いて、現在あちらに修行しております。
私共が神を目指すというと、こうちょっと聞きなれないと妙に考えますけれども、金光教の信心は皆この生神を目指すと言う事なんです。和賀心が愈々有り難い、勿体ないという窪みになって行く事。勿論私共ぐらいの信心ですから、この世ではとても出来んでしょうけれども、この魂がこの心が、あの世でもやはり精進する心であらなければならないと言う事でございます。限りなくいうならば信心を求めて行く心であります。
大変まぁ難しい事を聞いて頂きましたけれども、やっぱりこれを一つ皆さんも覚えて、まぁ私が申しました以上に、皆さんの信心で、これがどう言う様な事かを、又実際体験の上から、合点して頂かなければなりません。2、3日前でした。ここに、今修行しております、今村かずこ先生が御祈念中に頂いたと。こういうことを頂いたというて、その私に示すんですけれども、意味が分からない。「霊徳天命の義」と頂いた。
霊徳というのは、霊あの霊、霊神様の霊です。徳は御神徳の徳。天命とは天命いわゆる天の命とこういうか、霊徳天命の義。次に雪霊天命と頂いたと。雪の魂と書いてあるですね。雪霊天命。私意味が分からなかったから、これを書いて示されましたけども、その返事が出来ませんでしたけれども。だから、明くる朝の御祈念の時に、このことを頂いておりましたら、お互いが、例えば今難儀を致しておりますとしましょうか。それはもう天命なんです。
天命というのは、素晴らしいことだけに使われる言葉と、ある人がいってましたけれども、そうじゃないようです。よい事悪いことやっぱり全てが天命です。今大変幸せをしておる人はやはり天命で、そういう運命を神様に頂いておるのです。だからこれがその金があるとか、物があるとかだけではいけませんもんね。人間の幸福の条件というのは、それだけじゃいかんもん。
ですから本当に、自分の心が助からなければなりませんけれども、その霊徳天命の義と言う事は、御霊様が段々御霊ながらの修行をなさる。御霊ながらの信心をなさるわけ。そして、御霊の位も一段一段と高くなっていかれる。そういう例えば御霊様が助かられる、いうならば、この秋の御霊祭り又は春の御霊祭りというのを、そういう一つの儀式なのだということです。
だからもうこれはもう、愈々疎かに出来ない事が分かりますですね。次には雪霊天命。もうそれこそ雪の中に凍えておるような感じの御霊様も、沢山あろうかと思います。もうこの世ではね悪い事さえせにゃええと。もう飲んで食うてちょいと、言った様な生き方をする人が、もう沢山まぁほとんどでしょう。本当の信心を本当に頂いて、この世には魂を清めに来てるんだという、いうならば心にならせて、頂かなければ信心頂いておる値打ちはありません。
この世に私共は魂を清めに来ておる。と清めに清めた上にも清めて、あの世行きをさせて頂くところにです、初めて、いわば御霊の世界に入ってもやはり生神を目指して、御霊ながらの助かりを頂くことが出来ます。ここでは御霊様の働きというものを、今まで私共は分からなかった。あらゆる宗教がやっぱそうであった。御霊はやっぱり子供やら孫達の為にでも働きが出来る徳を持っていた。
教祖様がはっきりお仰っておられることは、御神徳をいうものは、あの世にも持って行けるこの世にも残しておけるのであって、あの世から、こちらに送ってやるということは出来ないと言う事なんです。だから自分自信が御霊ながらの助かりを頂くことが出来るのです。私共がこちらで徳を受けて、あちらで御霊ながらの、例えばなら沢山にお金をここに持っておる人だったら、この世でまぁ何不自由なくやっていけれるように、お徳というものを持っていけばです。
あの世で魂の世界で何不自由のない御霊の生活が出来ると言う事なんです。だからちった、余ったけんいっちょ孫に、かわいかとを送ってやろうちゅうことは出来ないと言う事なんです。そんなら御霊様を大事にしたっちゃもうなんに、こっち御霊様ば拝んでからね、どうぞあげんして下さい、こげんして下さいというて、言う様な人すらがありますよね。もうこれは金光教でもそうです。
もうだからこれはまぁ、それこそ金光教の中でも、この事だけには他の事は合点が行くばってん、これだけは大坪が言いよることは、ほんなこつじゃない。この頃ある青年教師の方が見えた時ですね。他のことは大体合点がいくけれどもね、その事だけは私はどうにも合点がいかんち。長年、親先生の御霊様にしっかりお願いをしよる。御霊様が時々現れて下さって、お指図まで下さる。御霊様が働いて下さる事は是によってでも分かるじゃないかと。というて私に詰問された方があるんです。
そうですよけれどもね御霊様がねそげな働きは出来ない。それはどこまでも天地の親神様の御演出なのだと。まぁちょっと悪い言葉でいうなら、天地の親神様のトリックなのだと。先祖を大事にする拝みよる。それを神様が喜んで下さって感応ましすのがいうならばです。久留米の石橋先生がある時に御霊様を拝んでおられたら、師匠であり小倉の教会長で初代教会長であった桂先生が、上半身を現しなさった。ご心眼に映じた。
そしてその御霊様が石橋先生に、石橋ご本部の御造営が中途半端になって、自分が亡くなったから後は頼むと仰った。さぁそこで石橋先生が奮い立たれたわけです。そしてあのご本部に皆さんがお参りされる。あのご楼門なんかは、久留米の先生の信心で出来たといわれております。ですから御霊様の働きはそげんしてあるじゃないかと。いやそうじゃない。例えば天地の親神様が、桂松平の生前の姿をここにトリックしておられる訳。演出しておられる訳。
ならこれがどこどこの誰々さんが来てから、石橋先生にですよあんたすまんばってか、御本部の御造営を、お願いしますと言いたっちゃ、石橋先生が言う事聞きなさらんもん。師匠であるから、言う事聞きなさったわけです。そういう例はもういくらもあります。ですからね、御霊様が、御霊様がお徳を受けられて、御霊ながらの助かりを頂かれる。同時に例えばそんなら、私共の例えば願いを、お取次ぎをお願いしますと言う事は、こりゃ又別ですよ。
けども御霊様自身が、いらく力を頂いていっても、徳を頂いておっても、現世に働きかけなさると言う事は出来ない。どこまでも天地の親神様のおかげを頂かなければいけんのです。例えば狐狸でもちょっと霊徳を現すと言った様なのがありましょうが。そりゃ狐狸に決して霊徳があるのじゃないです。天地の親神様の力をそこに受けるから、そういう不思議な働きが一つ生まれて来るわけ。もうこれ全て天地の親神様が億年かかっても、いうならば世の中この世界人間の住むとりわけ。
人間の世界にです特に人間にです、人間氏子に億年かかっても丸うせずにはおかん。丸うせずにはおかんという働きが、そういう働きになって現れてくるのです。幽霊なんかも神様のトリックですあれは。あるんです幽霊が。けれどもそりゃ恨み骨髄を、にこの世に残しておるけんで、その自分がのこのこ出て来るちゅうこと出来んのです。だからそのそういう苦しめたりねその思いを残す、そう言う様な事をこの世で私共が迷うて出て来る様なことがあっちゃならん。
又人に縋ったり、祟ったりする様な事があっちゃならん。とその幽霊の事実をね見たり聞いたりすると、私共がやっぱり少しでもよい行ないをしなければおられないから、そういう働きがあちらこちらで、事実あるわけなんです。ここんところがほんとは、ばさらか面白かばってん、あんまり長く時間がとられんから、もうこのくらいで分かってもらわにゃいけん。御霊に私共になって、御霊の働きというものは、あちらでお徳を頂いていけば、あちらで何不自由ないおかげが頂けれる。
こちらで何も持っていかなかった、魂を清めていなかったのはそれこそ雪の中で凍える様な、是はこれも表現なんです。そういう苦しい御霊もあると言う事。そういう例えば御霊もです、なら合楽教会に縁のある限りの人達が是だけじゃありません。もう三十年間の間に合楽にお参りをして来た。椛目時代に参って来たもう今は信心は止めておっても、一遍合楽に縁を頂いた限りの人であるならばです、神様の手が掛っておるも同然ですから、そういう関わりあいの御霊がです、合楽の信心によって助かろうと求める。
又助からなければならない事が、分からないような御霊もありますから、朝晩ここで合楽理念を説きおかげの泉を読んで聞かせて、御霊の心を開発していかなければいけんのです。人間の心だけが開発じゃありません。久留米の佐田さんなんかは、もう合楽あのおかげの泉がまいりますと、あれを一節ずつでもよいから、あの先祖の御霊様にあれを上げられるです。
あれはいうならば真理の書です。嘘でない本当の事がいうてある言葉なんですから、おかげの泉を忙しか時、ばらばらと御霊様の前に持っていっただけでん、やっぱ違うです。そうですよ頭痛か時に、おかげの泉読む暇が舞かなら頭ん上、金光大神様でばらばらばらばら、私はそれだけでもねそこに神風が起こると。私は信じておるですというほどしに、有り難いものなんです。
ですからここで縁のある限りの御霊達が、私の話を聞いて心が開発される。私は昨夜例の通り、今日の御霊様のお祭りを受けられる御霊様達の、まぁいうなら一つの儀式をね、させて頂きます。神様に私そのことをお願いし、お礼を申させて頂いておりましたら、私の心眼にねもうそれこそ、とてつもないいわゆる桜島大根のごたる、もっと大きな大根がね、もうそれもうちから、もうこうなんちゅうですかいぶしこぶしのある、もうそれこそ異様な大根を頂いたんです。
そしてその大根の根がね、最初はぽっとこう芽だけが出ておるという感じなんです。そういうお知らせを頂いたんですね。よく申しましょう口ばっかりの人。いかにも言う事だけは先生のごたる事いうとってもです、内容の無い人はあの人は憚りながらちっぽけなしというでしょう。だからまぁこりゃ合楽の信心なんかもそうかもしれません。憚りながらちっぽけなかも知れませんけれども。
それは何故私共がこういう尊い、素晴らしい事を分かっておりながら、それが行じられないのかと、知っておるけれども、どうにも出来ない、いうならば我情我欲のために私共が難儀をしておる。
それでも神様が、まぁ蓮根くうて下さって、おかげは下さるけれども、それがあなたの信心ではない。そういう信心を憚りながらちっぽけなしという訳である。いかにも葉が青々としこっとるけん、よっぽど根はこうやって、太かろうと思いよったとが、ひっかいで見たらこのぐらいばっかりじゃった。それがまぁ私達の信心じゃないだろうかと思いますけれども、魂の世界だけ、どうしたそんならいうならば、根の方が大きくて芽がちょこっとばっかりかと言う事なんです。
ここんところがね、私が今日いう我情我欲を離れないと、本当分からないですもうね、例えば魂の世界というは、もう肉体がありませんから暑いとか寒いとか。例えば痛いとか痒いと言う様な事はない。魂が苦しむだけ心が苦しんでおるだけなんです。もう心だけなんです魂だけなんです。ですからこの魂が救われたいという時には、頭んいたかつようなして下さい。お金が足らんけんお願いしますと言う事は御霊は言わんの。
もう只々魂が救われるならば、助かるならばと言う事だけに焦点を置くから、私共よりもかえってその助かるところの実が、多いと言う事になります分かりますかな。それもねもうどんなにいうても言う事聞かんで、もうそのもうそれこそあの世は暗黒だといわれておる。これも合楽理念の中にあります。あの世は暗黒です。ですからその暗黒の中でも、その暗黒が当たり前のようになっておる。
それこそ蛆虫がこううじゃうじゃしておる。そしてもう蛆虫はもうこれがもう当たり前のように思うておる。もうこういう苦しみはもうこちらへ来たら、これが相場じゃろうと言う風に思うとるわけ。だからそういうのを救い出してそうじゃないんだ。所謂この世にもあの世にもこの世にもですけれども、光明世界があるんだ。自分の心が光だしたら、自分の周辺が明るく成って来るんだという風にです説きあかさしてある。
例えば今日の御霊様は、そりゃ雪霊天命と言う事そういう苦しい、なら生活をしておってもそれはもう天命なのだというのです。だから天命だから救いようがないと言う事ではない。言うならばもう是は私の運命だと、決めてしまうのではなくて、そこからお取次ぎを頂いて、助かる手立てが説いてあるのが合楽理念なんです。例えば雪の中で凍えておる様な人がですお取次ぎを頂いて、合楽の信心の徳によって一歩一歩神様へ近付いて行く修行が出来るような、そういう一つの今日は儀式でも又ある訳でございます。
昨日からお参りになっております、宮崎から一連れ延岡ではない、高鍋です皆さんもご覧になったかしれません。ちょうど先月高鍋の古谷という、学校の先生をなさっておられます。もう本当に熱心な信心をなさっておられたんですけれども、ある事情でこちらへお参りをなさった。もうとにかく合楽にお参りをして来て、その有り難い有り難いが高鍋地区に、今度十年の記念祭には小型バスを二台もう約束してある。
四十何名ぐらいでしたか。自分がお導きをした方達が、合楽あの先生の信心一人が、そういう有り難い示現活動が出来ておられる。そういう示現の働きの中にこの方ももう、親子三代。もう三代にわたってしかも熱心な、総代までされ御用もそれこそ財の上にも体の上にでも、この人がおかげ頂きなさらんはずはないと言う様なおかげの頂けれると、まぁ見える信心を頂いてこられた。
ところがその今日参って見えておられる方の、弟さんという方がアルプスですかね、登山をなさった。一人でそして遭難されたんです。それを聞かれてその古谷先生が、すぐお届けがございました。どうぞもし亡くなっておられるならば、遺体でも早く1日でも早く分かるように無事にご遺体だけでも、こちらに一緒に帰ること出来るようにというお願いがしてございました。
もう本当に色々なことを頂きました。それから又しばらくして又、それから電話がかかってまいりました。そしてこちらから御親戚の方5、6名ですか。あちらの方へその遺体を受け取りに行かなければならない。色んな手続きやらもあるから皆でおいでられる。ところがあちらの方は三十分おきに雪崩があって、もう霧が深くてより付かれないと言う事が分かった。そこで天地が自由になるという、合楽の金光様にお願いをして、おいでなさい。私がお願いをしとくからおいでなさいというておかげを頂いた。
その方が昨日お参りをして見えて、本当にまぁ二十八歳ですか、まぁでもおかげを頂いてあっという間に亡くなられた。それでこれほどの信心をさせて頂いておるのに、どうしても合点がいかん。そこで合楽に参ったらその合点のいかん所を分からせて頂くかも分からんからというのが、私はお参りになったのではなかろうかと思うんですけれども。それが合点の言う様な話は私でも出来ません。
そりゃ私自身もこれほど信心するのに、もう大坪さんがおかげ頂きなさらんはずはないと言う様に、一家をあげて例えば信心させて頂いておりましたけれども、次々と難儀なことが起こった。弟の戦死なんかはとにかくね、8月の15日が終戦なら7月の30日に戦死しておる。まぁ15日ぐらいどうかならなかったですかと。私の母はあの御社にしがみついてから、御社をごうぐりましたよ。
それでも結局は長年信心させて頂いて、結局は神様にお縋りする他はございませんから、神様におすがりさせて頂いたんですけれども、合楽でこういう人が助かり、沢山ないうならばおかげが、ここで現れておるようなまぁ原動力を作ってくれたのが、私のその弟の御霊だった。だからそのそういう悲しいばかりをするのですから、誰も悲しくないというたら嘘です。けれども悲しいことが百ならばです、有り難いことは千も万もそのことを通して、頂けると言う事なんです。
あんたが死んだ時には悲しかった。けどもあん時から初めて、本当の信心を目指させてもろうたら、私の弟は大作という大作さん、今合楽で沢山の人が助かっている【感動されている】。その助かりが今世界中にも広がっていこうとしておるんだよと。もう御霊様にご挨拶をするたんべんにね、そういうお礼が言えれると言う事。信心しておるから雨も降らん、風もふかんと言う事はありません。今日たりのような例えばなら、お湿りがこうやってまぁしとしととあっておる。
けれどもねお参りする時には、おかげで傘がいらなかった。そしてお話を頂いておる間は、しとしとじゃったけれども、帰るようになったらまたお湿りが、上っておったというなら、お繰り合わせが頂けれるのが信心なんです。私は今日聞いて驚きましたことですけれども、古谷先生がいわれるのに、そのあちらに家族の方達がおいでられた。そしてなにげなしにテレビをちょっとひいたら、丁度そのご遺体をですね、山から下ろしよるところじゃった。
テレビでそしてそのご遺体の上にはね、菊の花が一杯おいちゃったげな。まぁ私それを聞いただけでも、例えば成程死んだからというて、もうお終いじゃないんだ。魂の世界に金光大神のご信心をこれからも、頂き現していくことが出きるのだ。もうそれこそ三十分おきのなだれ、そして強い猛風それがね、不思議と遺体を捜し出す事が出来たというて、あちらから電話がかかった。直ぐこちらへお礼のお届があった。
その時に私が頂いた色々な事やらは、皆さんにまぁいうなら今日お参りになった方に話しても分からんけれども、そういう働きがその前後にあっておると言う事は、天地の働き、神様の働き、お取次ぎを頂いてこういう働きが起きてくるんだと言う事は、分かるじゃないですかというて、まぁ話したことでした。雨が降る。傘を持っておる。おかげで濡れんですんだ。それこそ今日のご理解の中にあります親先生任せ。
もうこういう風でもう、吹き折れようかと思うような時でも、親先生任せになっていうならしだれ柳が風に逆らわない。それで折れんで済む様に風も吹きます雨も降りますけれども、その合間を縫う様にお繰り合わせを頂いていったり。雨が降っても濡れんですむ様なおかげの頂けれるのが、信心だと言う事でございます。そういう信心を私共は身に付けさせて頂くという。それにはね私共が信心が有り難いんだという、おかげも有り難い。けれども信心が有り難いと言う事になれば。
その信心にいやというても、おかげが伴のうて来るんだと言う事をです、まぁこれは何時も私が申しております事ですから、皆さんも耳に蛸が出来る様に聞いておられる事ですけれども。それを先ほど先生、若先生がいってましたように、いうならば信心を価値あるもの。値打ちあるもの。あの世にも持って行けれるほどしのもの。この世にもまた残しておけれるほどしのものを頂くことのために、この世には私共は魂を清めにきているんだという、いうならば信心を頂いて、本気で清めることに精進させて。
その清める手立てをです、合楽理念は楽しゅう有難うしかも合点をさせながら、解いてあるのです。今日は御霊様のお祭りですから、御霊様の世界の一分ね、又は御霊様の働きというものはこういうものだと言う様な事を、まぁ聞いて頂きましたが、どうぞその合楽理念と御霊様の関わり合い、または合楽理念では御霊の世界をかく見るんだと、かく解くんだという言を聞いて頂いて。
皆さんもほうといわずに、そうだと信じて下さって、愈々ね魂の清まりを願うて行く信心に、ならせて頂かなければいけません。真の信心を目指さなければいけません。愈々十年祭も後残す所僅かになりました。あれ十年の記念祭は、教会のためにあるのではない。信者がおかげを頂く事のために、あるんだと言われております。だから本当にただなら十年祭に、お参りすりゃおかげ頂く、と言う事じゃありません。
十年祭をいかに迎えるか。いかに御用させてもらうか、奉仕させてもらうかと言う所に、思いが込められなければいけないと言う事です。そこからまた記念祭を境に一段と輝かしいおかげになっていかなければなりません。29日はご生誕祭。皆さんのご信者の中に、70以上の方がおられますならば、全部早くお申し出になられて、そのお祭りに(あわれます)。
あの、それはね、あのお年寄りのお祭りじゃないんです、生誕祭ちゅうのは。教組様がご生誕になった、それを祝い喜ぶというのです。それを本当にもしこの世に、教組様がお出ましになられなかったら、勿論私の場合はありゃしませんけれども、皆さんもないのだ。その教組様がお生まれになった日だからという、お礼のお祭りなんです。それでその教組様が、まあ喜ばれるようなお祭りにしたいというので。
「年寄りを大切にせよ」と仰るから、まぁ年よりを大切にさせて大切にと言う事は、お年寄りを中心にお弁当が出来たり福引が出来たり、いうならいろんな余興を、沢山のお金をかけて折角地方の方達が、それを見せたり聞かせたりして下さると言う事なんです。だからお年寄りだけと言う事ではない。皆さんはそれこそ手弁当で、一つそのお祭りを拝まれて、最後の余興などもあの一緒にね、もう老いも若きも喜ばしてもらう。
教組様にお礼を申させて頂くお祭りでないか。そのつもりでどうぞ、お参り下さい。もう年よりだけしか、参っちゃ出来んとじゃなかろうか、という感じが何時もします。ですからどうぞ、そうして皆さんが皆さんがね、皆さんには合わせて、弁当あげるわけにはいかん。ですからお年の方だけに出るのですから、またお祭りだけ、頂いて帰るなら帰ってもよいのです。
ですから29日はそういう、お祭りそして愈々十年の記念祭を愈々輝かしいお祭りにさせて頂かなければならんと、念願しておるのでございます。皆さんもどうぞよろしゅう、一つ本当の信心をいうなら記念祭を境に、合楽理念を行の上に現していくね、申しております。もう本当に合楽理念の確立と言う事。それを十年祭をきしてと。最近では少しまたその、とてもこりゃ難しかろうごたるけんと、思うて私は最近ね。
もう黙って治めると言う事だけぐらいはいっちょ、みんなで自分のものにしようじゃないかと。合楽理念の中にある、あの黙って治めると言う事は、天地日月の心に肝要と仰る、その天地日月の心にも通うほどしの事なんだ。だから黙って治めると言う事が、この様にも素晴らしい事だという、一つ確立をねこれだけでも一つ自分のものにしようじゃないかというふうに申しております。
どうぞ。